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「光栄」創業当初からゲーム開発へ踏み出すまで
――当初は襟川陽一さんの「家業再興」を目指して創業されたとのことですが、そこからパソコン・ゲーム開発事業へと舵を切ることになったきっかけについて、恵子さんのご視点からどのように振り返られますか?
襟川 気がつけば会社の業務内容が変わっていったという状況です。もともと襟川の挑戦から始まった会社でしたので、襟川のやりたいようにするのがよいと思っていました。
――ゲーム制作はご多忙だったと伺いました。ご自身が制作にどのように関わり、どのような部分を担当されたのか、当時のご苦労とあわせてお聞かせください。
襟川 襟川はゲームの企画やプログラムに没頭していましたので、私はそれ以外の部分を担当しました。例えばパッケージデザインや広告、営業や流通の交渉などは私が行いました。広告の予算なんてありませんから、日頃からコンピュータ雑誌の編集部に連絡を入れて、広告の枠に不慮の空が出てしまったら使ってほしいと、広告の版下を預けたりしていました。とにかくなにからなにまで手探りで、知恵と工夫でさまざまな問題を乗り越えました。
――最初にリリースされた『川中島の合戦』(1981年)は1万本以上を売り上げましたが、陽一さんの“趣味”から“ビジネス”に変わる手応えはいつ頃感じられたのでしょうか?
襟川 当初はもっぱら通信販売だったのですが、大量の現金書留が届くようになり、今後も仕事として続いていくのかなと感じました。マイコンショップのようなものもやっていて、最初からゲーム開発が専業だったわけではないんです。もともと襟川が個人で開発をしていましたが、やがて社員を迎えて組織でゲームを開発するようになり、ビジネスとしての側面が深まっていったと思います。