こんにちは。ZEN大学助教の大野元己です。
普段は、大学の運営業務をしながら、中国の科学技術・イノベーション政策について研究しています。
大学では、受験という明確な目的や、叱ってくれる担任の先生のような、「勉強をする理由」がわかりやすい形では与えられません。では、私たちはなぜ、わざわざ大学に入学し、124単位を修得し、色々なことを学ぶのでしょうか。
私はもともと、明確な夢や自分の軸がない大学生でした。なんとなく勉強は好きだったのでそのまま大学院の修士課程に進みましたが、修士の学生は修士論文を出すまでに2年間しか時間がありません。すぐに就職活動が始まってしまいます。
新卒の就職活動では、一般に自身の原体験、価値観、夢などを明確にするための内省の作業が求められますが、私は内省が得意ではありませんでした。また、20代前半くらいまではコミュニケーションも苦手でほとんど人と会話できなかったため、80社以上からお祈りのメールをもらい、結果として2年間のうち1年半を就職活動に費やし、思うように研究ができませんでした。
なんとかあるメーカーに就職し、そこでは営業をしていました。街の商店やコンビニを営業車で回る仕事でしたので、昼休みは車の中で一人で過ごすことになります。1度目の大学院でほとんど研究できなかったという後ろめたさはありつつも、やはり勉強は好きだったので、営業車の中で色々な本を読みました。まともに社会人をするのは初めてだったので、とても楽しかったし成長もできた、良い経験だったと思います。しかし、色々な本を読む中でやはりもう一度ちゃんと勉強や研究をしてみたいという想いが強くなって会社を退職し、バイトや業務委託を転々としながら、また色々な人のお世話になりながら、30歳くらいまでいくつかの大学院でふらふらと勉強していました。そして気づけば、ZEN大学の運営のお手伝いをしたり、授業を担当しています。
このように確固とした自分の価値観や夢、原体験に基づいた人生設計をしておらず、そもそも内省が苦手な私にとって、勉強はとても大きな意味がありました。私は、将来必ずしも研究者になるわけではない人が勉強をする大きな理由は、授業で示される内容や、そこで紹介される本・論文などが、基本的に「自分と関係がない」ことにあると思います。ここでの「自分と関係がない」とは、授業の内容が自分の人生に影響を与えないとか、考えなくていいとか、将来役に立たないという意味ではありません。授業を受けたり、本を読んでいる人の原体験や、そこから導かれるように生まれたアイデンティティとは関係なく築かれたことを意味します。たとえば、図書館で一冊の本を手にするとき、また誰かが大昔に考えたある理論に授業で触れるとき、その本を書いたり、理論を考えた人は、ほとんどの場合私のことを知りません。それは、私個人に向けて作られたものではないのです。

内省が苦手な私にとって、小さい頃の原体験に基づいて夢を描くことや、自分の人生を一直線に捉えて自身のアイデンティティを考えることは、正直とても苦痛です。そんな私のことなど全く意に介さずに書かれた本や論文は、私にとって心地の良いものでした。私の専門は中国の科学技術政策ですが、私は中国とは縁もゆかりもありませんし、小さい頃から博物館や科学番組が大好きだったわけでもありません。でも、私と関係なく作られた色々な本を読む中で、気づけば自分にとって関心があること、時間をかけても良いと思えることが定まっていました。もちろん、自分の昔からのアイデンティティや原体験に基づいて将来の道を考えていくことは、とても素敵なことだと思います。でも、それにどうしても馴染めない人、これまでの自分の延長線ではないところに未来を描きたい人にとって、自分の人生とはほとんど関係のない色々なものを貪欲に吸収していくことは、とても良い選択肢だと思います。
もちろん、「自分と関係なく作られたもの」は、学問以外にもたくさんあります。それは、アニメでも、映画でも、音楽でも良いです。ただ、娯楽は基本的に個人が自由に選んで楽しむものですので、それまでの経験から築かれた好みに沿ったものを選択することになりやすいと思います。その点、大学という場では、何を学ぶかが教員によってある程度自身の想像の外から与えられますし、それが大学の一つの価値だと思います。4年間の貴重な期間ですので、さまざまな情報に接し、今までの人生では想像したことのないもの、今までの価値観では触れるはずのなかったものを、たくさん経験していただけると嬉しいです。